葉加瀬太郎『FRONTIERS』オフィシャル・インタビュー

2020年は、葉加瀬太郎のデビュー30周年の記念すべき年にあたる。このアニヴァーサリー・イヤーに向けて、これまでにない新たな企画が準備されていた。それはコンサートとも連動していて、春は大編成のオーケストラと共演するツアー、秋から年末にかけてはその対極にあるような小さな会場を選び、小編成でインタープレイが楽しめるようなライヴを行う予定だった。そのツアーに向けて、当初は都内のジャズ・クラブでレコーディングしたライヴ・アルバムをリリースする予定だったが、それも叶わぬ幻の企画になってしまった。
数年前からアイディアを練ってきたアニヴァーサリー企画だっただけに、すぐに発想を切り替えるのは難しかったというが、でも、「こんな時だからこそ、みなさんに元気をお届けするアルバム作りとライヴ作りをしよう」ということで、急遽制作されたのが本作『フロンティアーズ』になる。世界中が未知のパンデミックに襲われるなか、優しい癒しよりも一歩前に踏み出して、聴く人の気持ちを鼓舞するような作品を作りたい。そんな思いから出発したアルバム制作だった。
4月に始まった自粛生活は、精神的な負担はありつつも、多くの人がライフスタイルを見直す機会になるなど、さまざまな変化をもたらす時間にもなった。平均して年間100回以上のコンサートを毎年行ってきた葉加瀬太郎にもたらしたのは、家族と過ごす時間だった。自宅スタジオで曲作りに取り組むなかで、家族の言葉がインスピレーションになることもあった。
各曲については本人から聞いた話をもとに、この後具体的に紹介していくが、アルバム全体の特徴のひとつとして、これまで以上に多彩なサウンドと、そこにまつわる意外性の連続。さらにこれも意外性のひとつだが、随所に80年代、90年代の影響が見え隠れする。この時代を知る人にとってはそこかしこに懐かしさがちりばめられていると感じるはずだ。特に2曲目のカヴァーなどは、驚きの選曲に映るのではないだろうか。

では、ここから収録曲(ボーナストラックを除く)を紹介していきたい。

①『START!』
ヴァイオリンをこよなく愛するある会社経営者から依頼されたのが作曲のきっかけとなった。インスピレーションの源になったのは新たな人生に向けて美を提供する、その企業の“スタート”というキャッチコピー。アルバム制作にあたり、葉加瀬太郎のなかにあった「元気をお届けする」という思いと、この言葉がひとつになったところで生まれた曲であると同時に、アルバムの方向性を定める道標の1曲目となった。作曲の具体的なアイディアは、ロックっぽい曲調、わかりやすいストレートな8ビート。爽やかでありつつ、明るい気持ちがこみあげてくるような曲になっている。

②『Take On Me』
1985年に世界的に大ヒットしたa~haのデビュー曲。意外な選曲と思ったら、彼にとってもサプライズだったらしく、本当はアバを検索したかったところ、間違ってアハと入力してしまったことで思わぬ『Take On Me』との再会となったが、この偶然を「神様が僕に与えてくれたギフト」という。その理由はサビにある。低音から最後のファルセットまでヴォーカルではあり得ないレンジのサビが実はヴァイオリンにぴったりで、気持ちよく奏でることが出来るそうだ。それは聴いていても十分伝わるが、葉加瀬ヴァージョンの最大の特徴は、そこから続くシンセのリフをストリングスで再現したところにある。オリジナルと聴き比べると、さらにその緻密な演奏に驚くはずだ。

③『Manta’s Song』
アイリッシュ風の小品というアイディアから始まり、彼自身の中で構想がどんどん膨らむなか、最終的には5分に及ぶ曲になった。タイトルのマンタとは海を悠然と遊泳するあのマンタのこと。イントロで流れるバグパイプとブズーキ(もともとはギリシャの楽器)は、アイルランドの伝統音楽で奏でられる楽器だ。さらにカモメの鳴き声も聞こえて、どこか見知らぬ豊かな土地へ誘われていく感覚がある。そして、耳をそばたてると、曲の最後にパチャパチャという水音が聞こえてきて、海へ漕ぎ出すのか、それとも辿り着いたのか、より曲の物語が膨らむことになる。このアレンジを手懸けたのは羽毛田丈史で、葉加瀬太郎は、彼のことを「映像音楽の天才であり、情景を作るのが抜群にうまいプロデューサー」と評する。

④『Ave Maria』
本作では何度も”意外“に遭遇することになるが、イントロでは全く原曲が想像つかないシューベルトの『アヴェ・マリア』もそのひとつ。過去に演奏していそうな曲だが、一度もレコーディングしたことがない。好きでありながら、手を付けなかった理由は、20世紀を代表するヴァイオリニストのひとり、ヤファ・ハイフェッツのあまりにも素晴らしい名演があるからだという。それが半年前からこの曲の存在がやたら気になり始めたのが挑戦するきっかけとなった。プリプロダクションの段階で、「カッコいいリズムを作って」とギタリストの田中義人に依頼したアレンジをもとにしたビートが全編で響く刺激的な曲になっている。このモダンなサウンドに対して、葉加瀬太郎のヴァイオリンは、クラシカルな奏法に徹して、慈しみに満ちた深き音色を奏でる。それにより「あたかもクラシックを演奏する原曲をリミックスしたように聴こえる」曲に仕上がっている。

⑤『Victoria~勝利の女神』
もともとは、とある競馬場からの依頼で作曲されたので、冒頭のファンファーレ風演奏となった。英国の華やかな社交場、アスコット競馬場に行ったことがある葉加瀬太郎が最初にイメージしたのはヘンデルの組曲『水上の音楽』のようなブリティッシュ・バロックだった。そこから発展していった曲は、時代として明るく勢いのあった80年代へのオマージュともなった。クイーンに聴こえる瞬間があったり、クール&ザ・ギャングを彷彿させるファンクを取り込んだり、デヴィッド・ボウイの『レッツ・ダンス』風サックスが颯爽と流れたり。演奏しているのはツアーにも参加している大島俊一。個人的には彼のサックスが流れたとたん、ブラット・パックが出演した80年代のハリウッド青春映画が思い出されてくる。

⑥『Overtake』
さて、意外性の最上級にあるのがこの曲だろう。家時間が長くなったことで生まれた曲のひとつになる。というのは、ヨーロッパで大人気で、野外会場に数万人を集めてイベントを行うダンス・ミュージック、EDMを取り入れた背景には13歳の息子さんの影響があるからだ。彼は、日頃から爆音でEDMの曲を聴き、「こういうビートがいいんだ」と力説しているとか。そこからスポーツマンシップをテーマに書き始めたこの曲で、EDM風ビートと超絶技巧のストリングス・セクションの異色の融合が生まれた。そのなかで、やはりストリングスが今野均率いるチームの生演奏というのが最大の強みであり、個性、魅力でもある。EDMは、感情よりも神経に働きかけて、刺激することで高揚感が得られたり、気分がよくなったりする音楽。葉加瀬太郎も「こういう構成の曲をこれまで演ったことがなかったけれど、最初から最後まで気持ちよさが持続されていく」という。

⑦『Sunny Side Up』
家族のなかで女性陣から上がった「自粛期間中にみんなが家で体操が出来るような曲があったらいいのに」というリクエストがインスピレーションとなり、自然に素直に自分の中から生まれてきたメロディーが曲に発展したという。そして、生まれたアイディアに思い浮かんだのがJ-POPの名曲、山下達郎の『RIDE ON TIME』だった。潮風が感じられるようなドライヴ・ミュージックがあったらいいかもしれない、という思いも重なり、80年代のような豪華ミュージシャンが参加したレコーディングになった。是非ミュージシャンのクレジットを見て欲しい。今どきこんなメンバーがレコーディングで揃うことは滅多にない。参加した誰もが心から楽しんだセッションになったという。女性陣のひとり、20歳の娘さん曰く、「めちゃめちゃカッコいい曲」とのこと。80年代を知る世代にはノスタルジー、若い世代には生演奏の素晴らしさが新鮮に映るのだろう。

⑧『Home Suita Home』
タイトルのSuitaとは大阪・吹田市のこと。葉加瀬太郎が3歳から17歳頃までを過ごした出身地の市制80周年を記念した事業の一貫として、制作を依頼された曲になる。市役所の担当者と何回もミーティングを重ねて仕上げられた。当時葉加瀬太郎が住んでいた千里ニュータウンは、「雨後のタケノコのように次々に団地の建物が、また近くに万博会場、エキスポランドが建設されていった」という、日本の高度成長期を象徴するような存在だった。当時の映像を思い浮かべ、さらに現在はサッカー・ガンバ大阪のホームスタジオがあり、夏になれば、伝統のお祭りだんじりで人々が沸く。そこからスタジアムで流れるサンバとだんじりのお囃子が取り入れられた。

⑨『匠の蔵』
九州と沖縄で放映されているTV番組『匠の蔵』のテーマ曲。この地方で活躍されているさまざまなジャンルの職人の仕事ぶりを紹介する番組ということで、葉加瀬太郎は「アルチザン的な気質を持ったミュージシャンと一緒にやりたい」と思い、声を掛けたのがフラメンコ・ギターの沖仁だった。南スペインの青空と哀愁を運んでくるようなギターの音色と、フラメンコに欠かせないカホンの素朴なリズム、さらに歌うように奏でられる葉加瀬太郎のヴァイオリン。数年前に作られたもので、今年のパンデミックには全く関係ないが、聴くうちに明日という希望が静かに描き出されていくような曲になっていると思う。

⑩『Can’t Help Falling In Love』
オリジナルは、1961年のエルヴィス・プレスリーの大ヒット曲。これまでに数えきれないほど多くカヴァーされているが、このヒット曲を葉加瀬太郎は、「世界一のメロディー、まさに名曲です」という。カヴァーのアイディアを練るなかで、彼の頭で鳴っていたのはカルチャー・クラブのヒット曲『君は完璧さ』のようなブリティッシュ・レゲエのリズム。そして、イメージとして描いたのはハワイ・ハレクラニホテルにいる、子育てが少し落ち着いた夫婦が美しいサンセットを眺めながら、心穏やかな時間を過ごしている姿だった。そこからレゲエのリズム以外にスティール・ギター、ウクレレ、スティール・パンといった楽器が加わった。ミュージシャンも「このグルーヴを生み出せるのは彼しかいない」と絶大な信頼を寄せるドラムの屋敷豪太、スティール・ギターを弾くのは高田漣。「収録曲で一番気に入っている」と語る。

⑪『レクイエム』
番組なり、企業なり、依頼されて曲を書くのが好き。自分のやりたいこと以外にフォーカスするおもしろさがあり、その課題によって自分が羽ばたくことが出来るからだという。それでも『レクイエム』の作曲には苦悩があった。故人の魂を慰めるだけではなく、その人を偲ぶ家族の悲しみを和らげて、気持ちに寄り添うにはどういう曲がふさわしいのだろうか。当時たまたま訪れていたイタリア・ローマの街を歩き、教会の鐘の音を聞きながら、アイディアを練っていった。
私自身は、『レクイエム』というタイトルに最初身構えた。荘厳な曲を今受け留められる力は、自分にあるだろうかと。でも、そんな心配はいらなかった。『START!』から始まり、いろいろな音楽の旅を楽しんだ後、『レクイエム』で自分の魂が癒されるような、心安らぐ時間が持てる。そして、彼自身がアルバムでドラマを描くのが好きという言葉を心から実感することが出来る。

最後にタイトルの『フロンティアーズ』とはアメリカ開拓時代に西を目指して大陸を進んでいた開拓者達のことであり、葉加瀬太郎は、彼らの姿に自身の30年を重ね合わせているようだ。ヴァオイリンをクラシックの楽器ととらえると、彼の音楽はメインストリームから外れているかもしれないが、ヴァイオリンの可能性を追求していることにおいては、誰よりもフロンティアーズだろう。
そして、もうひとつ好きなバンドへのオマージュも込められている。そのバンドも意外だった。彼らの名前と思い出は、今後コンサートできっと彼の口から語られるはずだ。

2020年7月 服部のり子

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